儒医の文芸
著者: 福田安典
出版社: 汲古書院
出版年月日: 2025
【はじめに より】(抜粋)
「儒医の文芸」と銘打った本書の中心をなす人物は香川修庵と都賀庭鐘である。修庵は儒学と医学とを同時に修めた「儒医一本」を提唱しその塾を「一本堂」という。庭鐘は一本堂で学んだ後に大阪で辛夷館という医塾を開き、かたや『康熙字典』を校訂、読本の嚆矢たる『英草紙』を著した。
……儒医、香川修庵、都賀庭鐘についての研究はそれぞれの関心領域で多くの蓄積があるが、これらを結びつけて正面から扱った研究は少ない。その理由として医学と文学二つの領域の事情を指摘しておきたい。医学史のうえからは、庭鐘の伝記には不明な点が多く、医学上の業績や著書がないことから、儒医の列伝からどうしても漏れてしまう。文学の面からは、現代でも医師でありながら文芸に携わる人の作品に医学上のアプローチを必要としないように、庭鐘の文学史的評価に医学の要素を加える必要を感じていない。
その分断に問題がないわけではない。例えば庭鐘には伝説の医師・耆婆に材を取った『通俗医王耆婆伝』という作品がある。仏典の『柰女耆婆経』を利用してその他の漢籍を絡ませた白話体小説であるが、仔細に分析すると、そこには山脇東洋の『蔵志』および人体解剖への批判、自身が参加した戸田旭山の薬品会が取り込まれている。これは明らかに儒医としての庭鐘の所見が作品内に挿入され、その違和感や深みをもって庭鐘文学の世界が構成されているのである。
そこで本書では、医学や文学の先行研究の恩恵を受けながら、都賀庭鐘を中心に儒医の文芸を捉え直し、そこから照射された地平の持つ豊穣さ、江戸期の文芸の多様な娯しみを浮かび上がらせることを目的とする。
……序章では、儒医について、本書で論じる際の基本的定義を定める。儒学と医学が併称される前には、医学と相性がよかったのは陰陽道であった。そのために「医陰」という言葉があった。その「医陰」が「儒医」に取って代わったのが近世期の特徴である。しかし、儒医という言葉には必ずしも肯定的な評価ばかりが与えられているわけではない。懐徳堂初代学主の三宅石庵は、息子が体が弱かったので反魂丹という薬を売る業をしていたが、その姿勢を同じ懐徳堂の五井蘭洲が「鵺学問」と酷評したことは有名であり、伊藤仁斎も儒にして医を学ぶは可だが、医にして権威付けのために儒者を標榜する者には厳しかった。儒医という聞き慣れていながら実態が多様な用語についてはまず共通理解が必要であろう。序章ではそのあたりを整理しておく。
第一章では、儒医の文芸を論じる前段階として、医学と陰陽道が併称されていた「医陰」の文芸について論じる。具体的には「医事説話」という用語を提示し、それにあわせて医事説話の展開を概観する。
第二章では儒医の文芸を考察するために、香川修庵という儒医に注目した。そのあり方に大きな影響を与えた古義堂と医学の関係から論じ、上田秋成と本居宣長の論争までも視野に収めることとする。そして、儒医を代表する後藤艮山、香川修庵の賀宴における文芸の概観をもって儒医の文芸の諸相を浮かび上がらせてみたい。
第三章では、都賀庭鐘を取り上げた。彼を儒医と呼んでよいのかどうかは一様に断じることはできないが、著述、医学、書、明清文学との関わり、和歌利用態度などから多角的に論じている。その営為もどこかに和歌世界と交流のあった香川修庵の影響を除くことはできないことを指摘することで、「儒医」としての都賀庭鐘の実態に迫っていきたい。