| << 鎮江・焦山に眠る「大字の祖」:謎に包まれた名碑『瘞鶴銘』を訪ねて 2026-02-18 |

台北故宮博物院『祭姪文稿』
書画の世界で「南北宗論」を唱え、後世に多大な影響を与えた明代後期のトップスター、董其昌。彼は書画家としてだけでなく、理論家、そして膨大なコレクションを誇る収集家としても君臨していました。しかし、そんな彼にも「手に入れたくても届かなかった」苦い記憶があります。その対象こそ、唐代の巨匠・顔真卿が愛する甥を悼んで書いた「天下第二の行書」、『祭姪文稿』でした。
1. 至宝の流転と董其昌へのチャンス
『祭姪文稿』は、北宋時代の官僚・李士衡の時代からその所在が記録されています。1570年、安徽省歙県(きゅうけん)の収集家・楊明時の手に渡り、1582年には多くの文人たちがこの作品を品評し、記録を残しました。

その後、作品は歙県の名門・殷氏へと移ります。1598年ごろ、所蔵者の殷光彦(いんこうげん)が長安へ行くための資金を必要としたことから、この稀世の珍宝が市場に流れるというニュースが、董其昌の耳に届きました。
2. 「手遅れ」の代償:二ヶ月間の迷いと敗北
董其昌はこのチャンスを逃すまいと、すぐさま交渉に乗り出しました。作品は実際に二ヶ月間もの間、董其昌の書斎に置かれていたといいます。
しかし、殷光彦が提示した価格は、董其昌にとって非常に高額なものでした。董其昌は歯を食いしばる思いで価格交渉を続けましたが、最終的に妥協点を見出せず、心に深い痛みを感じながらも作品を返却してしまいます。
彼は「これほどの高値なら、すぐには買い手がつかないだろう。今のうちに資金を工面すれば、また縁が繋がるはずだ」と楽観視していました。しかし、その期待は無残に打ち砕かれます。作品が彼の書斎を出た直後、同じ歙県の大富豪・呉廷(ごてい)が、圧倒的な資金力で一気に買い上げたのです。
呉廷は、現在北京故宮博物院や上海博物館に収蔵されている『蘭亭序』や『伯遠帖』、『鴨頭丸帖』などを所蔵していた伝説的なコレクターでした。董其昌は後に自著『容台集』の中で、この時のことを「手元に置いていたのに得られなかった」と、深い悔恨とともに振り返っています。
3. 繰り返される失敗:『西升経』を巡る三度の挫折
董其昌の「敗北」はこれだけではありません。彼は同じ所蔵者(殷光彦)から、褚遂良(ちょすいりょう)の『西升経』も買い取ろうと試みていました。

1603年、彼は『祭姪文稿』での失敗を教訓に、顧愷之の『洛神図』に加えて200金(現在の価値で約300万〜500万円相当)という、誠意を尽くした条件を提示しました。しかし、それでも殷光彦は首を縦に振りませんでした。その後、1607年に殷光彦が泉州の役職に就く際にも再び交渉のチャンスがありましたが、結局またしても高値で他の誰かに買い取られてしまいました。

董其昌は、二度ならず三度までも、同じ所蔵者の前で敗北を喫したのです。
4. 運命の逆説:失ったからこそ守られた「奇跡」
董其昌にとって、これらの作品を手に入れられなかったことは人生最大の汚点であり、後悔だったかもしれません。しかし、歴史の皮肉はここにあります。
1615年、董其昌の邸宅が暴徒に襲われ放火される「民抄董宦(みんしょうとうかん)」事件が発生しました。この時、彼の膨大なコレクションの多くが灰燼に帰してしまいました。
もし、董其昌が執念で『祭姪文稿』を手に入れていたとしたら、この至宝も火の中で失われていた可能性が非常に高いのです。彼が「敗北」し、作品を逃したからこそ、今日私たちは台北故宮博物院でその真筆を目にすることができるのです。
「失ったことが、保存に繋がった」 ―― 芸術の神様が仕組んだようなこの運命の悪戯は、収集という行為の不思議さを物語っています。
次回の予告: 董其昌よりもさらに「悲惨な」人物がいたことをご存知でしょうか?作品が目の前にあったにも関わらず、保存状態を理由に買い控えてしまった学者・孫鑛の物語を次回お届けします。
(不同艺)
前回:なぜ顔真卿『祭姪文稿』の題跋は、時系列も記憶もバラバラなのか?
光和書房では、書籍だけでなく、中国書画・拓本・碑帖・法帖、掛軸・文房四宝(筆・墨・硯・紙)の買取にも力を入れております。
| << 鎮江・焦山に眠る「大字の祖」:謎に包まれた名碑『瘞鶴銘』を訪ねて 2026-02-18 |




メールアドレスを入力
してお申込みください。




メールアドレスを入力
してお申込みください。