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焦山「瘞鶴銘庁」の保存されている原石
中国・江蘇省の鎮江には、古くから「金山(きんざん)」「焦山(しょうざん)」「北固山(ほくこざん)」という三つの有名な山があります。金山は伝説『白蛇伝』の舞台として、北固山は三国志の劉備ゆかりの「甘露寺」や数々の名詩で知られていますが、今回スポットを当てるのは、「江南の碑の筆頭」と称される焦山碑林(しょうざんひりん)の至宝、『瘞鶴銘(えいかくめい)』です。

1. 『瘞鶴銘』とは何か?
この不思議な名前の「瘞(えい)」という字は、非常に難解で「埋葬する」という意味を持ちます。『瘞鶴銘』とは、平たく言えば「死んだ鶴を供養するために書かれた碑文」のことです。
この碑は、書道の世界では「大字之祖(大きな文字のルーツ)」と崇められており、その地位は極めて高いものです。現在、焦山の「瘞鶴銘庁」には、清代に長江の底から引き揚げられた5つの原石が保管されています。

2. 数奇な運命:長江に沈んだ300年
『瘞鶴銘』の歴史は苦難の連続でした。
• 誕生と消失: 514年(南朝・梁)に焦山の断崖に刻まれたとされていますが、唐代に山崩れが発生し、碑全体が長江の奔流の中へと沈んでしまいました。
• 再発見の試み: 北宋時代(1048年)に一部の原石が発見され「宝墨亭」に安置されましたが、その後再び紛失しました。
• 清代の引き揚げ: 1713年(康熙52年)、当時の役人であった陳鵬年(ちんほうねん)が私財を投じて3ヶ月に及ぶ大規模な捜索を行い、下流3キロの地点から5つの原石を引き揚げることに成功しました。これが現在、私たちが目にすることができる93文字の原石です。
3. 戦火から守り抜いた僧侶たち
この名碑は、日本とも深い関わりがあります。 江戸時代の書家たちの間でも『瘞鶴銘』の名は広く知られていました。1937年、日本軍が鎮江に迫った際、日本側はこの原石を本国へ持ち帰ろうとする「金百合計画」を立てていたと言われています。 この危機を察知した焦山の定慧寺の僧侶たちは、原石を壁から取り外し、地中に埋めて隠し通しました。その後、1960年に鎮江政府によって再建されるまで、この名碑は再び日の目を見ることはありませんでした。
4. 未だ解けぬ「三つの謎」
『瘞鶴銘』には、現在も解決されていない三つの大きな謎があります。
① いつ書かれたのか?:正確な年代は今も特定されていません。
② 誰が書いたのか?:署名には「華陽真逸」などの号が記されていますが、正体は不明です。有力な候補は二人います。
◦ 王羲之(おうぎし): 鶴を愛したことで知られ、書風も似ていることから、欧陽修や乾隆帝などが支持しています。
◦ 陶弘景(とうこうけい): 南朝の道士で、やはり鶴を飼っており、別号が碑文の署名と一致することから、現在はこちらの説が有力視されています。
③ 本来は何文字あったのか?:現存する原石には93文字しか残っておらず、全文が何文字だったのかは永遠の謎です。
結び:焦山の魂に触れる
『瘞鶴銘』は単なる石碑ではありません。焦山碑林の「魂」であり、米芾(べいふつ)や陸游(りくゆう)といった歴代の文人たちが、この碑を一目見ようと焦山を訪れ、多くの文章や詩を残しました。
陸游踏雪観瘞鶴銘石碑
南朝から現在まで1500年以上の時を超え、長江の底から、そして戦火の地中から蘇った『瘞鶴銘』。その力強い筆致と、そこに秘められた数々の物語は、今も訪れる人々に深い感銘を与えています。
鎮江を訪れる際は、ぜひ焦山へ渡り、この「大字の祖」の迫力をその目で確かめてみてください。中秋の名月のような特別な日に訪れることができれば、より一層、歴史のロマンを感じられるかもしれません。
邵三房
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